2020/12/4の日野晃先生のブログ「現代人にこそ」
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すごいことがさらっと書いてあった。
明鏡塾で習っていたのは、「こころのかたち」だったのか。
日本文化そのものではないか。
だから心うたれるし、魅了される。
そして習っていて、きりがない。
ゴールが見えないのも当たり前だ。
「こころのかたち」は、その人の一挙手一投足、生活のあらゆる所作、礼儀、態度、人や物との関係性、仕事などに現れてくる。
すぐれた伝統芸能、武道や職人などの名人芸、美術、工芸品、建造物などに感銘をうけるのは、素晴らしい「こころのかたち」を目の当たりにするからだ。
「こころ」を素晴らしいものに練っていく。日本にはそういう文化がある。
せっかく日本に生まれたからには、それにとりくまないともったいない。
明鏡塾で学ぶ「こころのかたち」。
意識、感覚、体の繊細な動かし方、使い方、ことば、声、感情など・・・・。
こころに関連したあらゆることを学ぶ。
そしてそれは、すべて「生」に直結する。
こころを研ぎ澄ませていくと、今までの自分の常識を越えたことが体感できる。
ただし、受け身では教われない。自分で学び取らないとだめだ。
非常に高度で、難しい。進歩も簡単には感じられず、安易な気持ちだとすぐ心が折れる。
しかし、一度その大切さに気づけば、すごくやりがいがある。
参)2020/12/4の日野晃先生のブログ「現代人にこそ」。
「触れる」は、「明鏡塾」でも「武道」でも共通する。
そしてそれは深い意味を持つものだから、ダンスや演劇などの「表現」とも共通させる事が出来るものだ。
そして「相手の流れに乗る」も、同じように、これら全てと共通する。
それは人の「関係」そのものの具体的な形だから、共通するのだ。
しかし、この「形」というのは、例えば手の形、身体の形の事ではない。
それこそ、拙著「こころの象(かたち)」のそのもの「こころのかたち」だ。
だから、現れとしての手の形や身体の形に意味は無い。
しかし、大方の人はそこだけに着目する。
そうすると、似て非なるものになるしかなく、列車の線路のように、平行線を辿るだけである。
「触れる」を敢えて説明すると「明鏡止水の如く」となる。
まるで湖面にその風景がそっくり映るように、自分のこころに相手が写り込む状態だ。
当然、考えて出来る事ではない。
ただ、ひたすら繰り返した先に、その状態が現れる、そんなものだ。
堪え性の無い現代人にこそ、必要な「行」とも言えるのだ。
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