2020年11月30日月曜日

5期3回目、日野晃先生からの返信

 感想をありがとうございます。

 

おっしゃるように「おれおまえ」が関係の全ての基本になります。

これが無かったら、何一つ成立しません。

もちろん、思いの世界の中で「成立している」と思うのは自由ですが、完全な自己満足なので、検証が成立しません。

世間は「思いの中」で生きているので、それで良いのですが。

 

「突然、歌い出す」への挑戦は面白かったでしょう。

あれも突き詰めれば、歌い出すから引っ張るのか、引っ張られたから歌ったのかが、分からない状態になります。

コツは無いのですが、歌い出す時に雰囲気が変化します。

それは目の雰囲気かもしれないし、全体の雰囲気かもしれません。

とりあえずは、自分のやり易い見方を開発して下さい。

 

「点を感じ取る」は、難しいと思います。

ここは、意識と具体のそれこそ接点になるところです。

最初に話した「思いは実現する」というのと同じです。

具体的に探すのですが、そこを誘導するのは意識ですから。

 

来週お会いするのを楽しみにしています。

 

日野晃

5期3回目大阪明鏡塾レポート

 

20207月、雨模様の蒸し暑い日、コロナの影響のせいか、こじんまりとした集まりだったが、密度は濃かった。ワークは相変わらず難しいが、難しさを皆が楽しんでいて、いい感じの一日だった。

 

●前回の宿題「様々な手応えを感じ検証し、自分の力加減と感覚を知る」の問答で印象に残ったこと:

1)「思いは実現する」。これは確かにそうだが、今のレベルでの思いではない。今はそんなことを思わないこと。意識状態が何層か良くなっていったら、思いは実現する。それは言葉も一緒。

2)今まで蓄積されてきた経験と全く違うことをやってみること。そうすると何か発見できる。例えば長年の片麻痺の人を歩かせるときに、麻痺側の足に体重をのせるように誘導するときのように。

3)手や足の末端をストレッチすると、神経が末端まで行き届き、感覚が鋭敏になる。

4)体幹や腕をストレッチして体を使うと外に力が出る。「(力んでいるだけの)力を入れる」と「力を出す」は大違い。

2020年11月29日日曜日

大阪5期2回目、日野晃先生からの返信

 

「死ぬのがこわい、というのは思いの世界の中だけの話なのか。」

 

そうです、「思いの世界の中だけ」です。

意識があるから色々余計なことを知り、一喜一憂するのです。

死ぬのが怖い、というのは、「不安」と取った方が適切な気がします。

つまり、「知らないこと」に不安になる、という、これも「思い優先」の結果ですね。

 

 私の古い友人に単車の事故で二度臨死体験をした男がいます。

その男は色々と言いますが、それは「その男」の体験であり、他の誰のものでもありません。

つまり、「俺には、関係ないやろ」という事です。

この臨死体験にしても、その体験そのものはあると思います。

しかし、それを言語にしているその時点で、それは思いの世界に入ります。

臨死体験という体験を、自分の持つ言語や知識で解説するという事ですから、自分の持つ言語や知識は臨死状態の世界にあるものではありません。

ここの矛盾に気付かないから、引っ張られてしまうのです。

 

 では、日曜日。

 

日野晃

5期2回目の大阪明鏡塾レポート

 20206月、初夏の蒸し暑い日に行われた。

 名人技を見ただけでいきなり出来るわけがない。しかし心身は素晴らしいもので、勝手に日野先生の澄んだ意識に影響され、ワークを通して感覚が研ぎ澄まされ、前回から1ヶ月で蓄積した心身の鈍さ、汚れがなくなっていった。頭ではなく体を信頼し、感覚に任せていこう。そう決めると難しいワークで煮詰まってもこたえなかった。まだまだ自分の姿は動画で見られたものではなく、いろいろな課題が見つかるが、あきらめず続けていくと着実に進歩する。 

●冒頭の問答で印象に残ったこと:

1)「骨をさぐる」とすでに決めているのだから、あとは手でありのまま感じるだけ。

2)頭はいろいろ思いを張り巡らせるものだが、どんな反応があるのかだけが手がかり。ジャッジしてはだめ。人によって反応は全部違う。1500人うまくいったが1501人目でうまくいかなかったとき、それを例外として扱ってはだめ。まだ甘かったと受け止めて、修正していく。これが永遠に成長していく視点。例外が出ないように、今までうまくいっていたことをぶち壊して作り直すこと。

3)感覚は言葉にすると離れていってしまう。だから絶対患者の言うことをきいたらあかん。誰も自分の思ったことを言葉で本当に表せているか? それは無理。だから相手の言葉でなく顔色などをキャッチして感じること。「意思がちゃんと相手に向かっているか、関係しているか」「私があなたに」ということが大事。

4)ワークでも行為でも、する前は思っててもいい。最中は思ってたらあかん。

 

2020年11月28日土曜日

大阪5期1回目、日野晃先生の返信

 「思い患う」は、ピッタリの言葉ですね。

私はその言葉を忘れていました。

昔は「恋患い」なる言葉がありましたね。

まさに「恋」という幻想にドップリとはまり込んで、極端な自律神経失調症になっていたのだと思います。

 

もちろん、言葉は大事だし考える事も大事です。

しかし、それを「使う時」を間違えてしまっている、あるいは、混乱してしまっているのが、多分産業革命以降の私達だと思います。

幻想が作り上げた世界、つまり、幻想でも世界を作り上げる事が出来るし、逆に幻想がなければ「物」を作り出すことはできません。

その意味で、幻想という世界、あるいは、幻想という働きも大事なのです。

 

ただ現場では、思考よりも「見る→行動」という回路が重要なのですが、そこに「幻想→行動」という回路が邪魔をするのでやっかいなのです。

 

「息を合わせて押し込む」が、思ったよりも難しかったとあります。

もちろん、来須先生が書かれているように、思考が働いて全てを分断しているからです。

そして「息を合わせよう」と意識も働くからです。

だからこそ、「言葉化してはいけない」となるのです。

この実際と言葉は、多分、人にとって永遠の課題だと思います。

 

では、明鏡塾で。

 

5期1回目の大阪明鏡塾レポ

 死は目の前にある。

しかし、ぼやぼやしているので、すぐ時が経つ。

武禅から帰ってきた人たちの顔つきをみると、見違えるように精悍になっていた。

それを見て、つくづく、やりたいことをやらないと損だ、と思った。

それに触発されたせいか、つい後回しにしていた明鏡塾レポートのブログを

少しずつでもやっていこう、という気になった。

で、2020年5月の大阪5期1回目から。


コロナ緊急事態宣言が終わった直後の静かな中、じっくり明鏡塾で心身を静かに研ぎ澄ますワークに取り組めて本当に良かった。世の中の流れが急変した故に、いつも以上に明鏡塾の価値を感じた。

1) 「背中を触れる」ワーク(2人1組、臥位)

 今回はOさんと組んだ。2ヶ月ぶりに行ったが、最初は相手の背中を触れる意思も弱く手の感覚もぼんやりで、「浅かった」という感想だった。その後、前腕骨を触れるワークをしてから意識が静かに鮮明になり、再び「ほね、肋骨を触れてみよう」と指示をもらって背中を触れると、手がピタッと相手に吸い付くような感じで繊細に背中を触れることができた。日常生活に戻っても自分の感覚を鋭敏に保ちたいものだ。一つの動作を「こうしよう」と自分の欲求を明確にして、手や目や耳などで触れた感覚をなるべく繊細に感じていくことを意識していきたい。

2) 「骨を触れる」ワーク (2人1組。床坐位)

相手の片腕を両手で触れて、骨を手全体で感じ取るワーク。日野先生が触れると、受けていても前腕骨だけでなく上腕骨や体幹上部の骨まで浮き出てくるように感じたが、Oさんなど柔道整復師の方は無意識に指先で探ってツボ押しになり、筋肉と骨の一部だけ浮かび上がってきた。まず指先で骨の硬さを感じ、次に親指や手のひらを使って逆側から骨を感じとり、手全体で前腕骨を感じ取るようにする。するとなぜか前腕骨だけでなく上腕骨や肩関節付近の肩甲骨くらいまでつながって感じ取れる。骨だけ感じ取っている感覚、意識を保ったまま、外側から円をえがくように横方向へ骨格を倒すと、相手は筋力に関係なく倒れる。筋力のありそうなOさんを「骨は骨や」でスーッと倒すことが出来た体験は面白かった。

3) 「背中を触れ、呼気に合わせて押し込み、吸おうとする瞬間にパッと離す」ワーク(2人1組、臥位)

 背中を触れ、呼気に合わせて背中をぐっと押し、吸気時はその圧を保つ。そして次の呼気にさらに背中を、相手が悲鳴を上げそうになるくらい押し込む。呼気が終わり、吸おうとする瞬間、仕上げでグッと一押ししてパッと手を離し解放する。すると相手の息が深く入り、爽快になる。先生がすると簡単に見えるが、息を合わせるのが難しかった。相手の呼吸に合わせて自分も呼吸してみるが、無意識に相手の呼吸をこんなリズムだろうと自分勝手に予測してしまい、タイミングが合わなかった。瞬間瞬間に呼吸を感じ、ココだと直感した瞬間に手をパッと離す。たまにまぐれ当たりのように出来たが、失敗することが多かった。それと相手を押し込むのが相変わらず弱かった。相手を押そうという意思が弱く甘い。

4) 「立っている相手の前腕を両手で持ち骨を感じ取ったら、肘から背骨の方へ外円をえがくように動かす。肘から背中をひっかけて固定し、相手を前に歩かせる」ワーク(2人1組・立位)

 相手の前腕を両手で持って屈曲させ、前腕骨を感じとり、その感覚を保ったまま背骨の真ん中へ向かって外円を描くように動かす。骨の感覚にとことん集中すると背骨も手で感じ取れ、相手の前腕骨、背骨を一塊として前に動かせた。ただ不思議な感覚だったので、解剖学的に見て、肘と背骨が直接つながって感じるのはおかしいなあ、などという思いが浮かんでしまい、するととたんに出来なくなった。思いの世界にすぐに入り込んでしまうくせを払拭するのは難しかった。

5) 「寝ている相手の両腕を持ち、骨を感じて、感覚や意識を保ったまま腕を回外させて背中をひっかけて、体全体を感じて起こす」ワーク(2人1組、臥位と立位)

仰向けに寝ている人の前腕、肘付近を持つ。骨を手で感じとり、両腕を回外させる。肘を人差し指で感じ取り充分に内部を回外させて、一定の意識状態で一連の流れを保ち、背中をひっかけ体全体を感じて起こす。日野先生の手本もどきとなり、雑ながらも相手を楽に起こすことができた。

6) 「寝ている相手の鎖骨付近から肩上部、上腕外側、肘とさすり、肘を人差し指で回外させるようにさすって、前腕に両手を添え、相手の上体を起こす」ワーク

 日野先生の手本と、皆がしている動作があまりに違うので、スマホで動画を撮って各自確認した。各自はそれぞれ自分なりのさする動作になっており、日野先生の手本通りの動き、意識の流れでない。言葉で「肩」「腕」を「さする」「持ち上げる」「手を腕に添える」「持ち上げる」と受け止めてしまうと、それぞれの今までの経験、言葉による認識の中での、各自なりの場所での動きになる。手本をまねる、とは、日野先生が相手に働きかけた「そこ」を「その動きで」「その意識状態で」動かすことだ。日野先生に実際にしてもらうと、実に繊細に動かされ、意識を途切れさせることなく、骨や体が動かされ、すんなりと起きてしまった。肘あたりでも手の動作は一瞬止まったように見えても、意識は途切れることなく肘を丁寧に回外させるよう動いており、体の中に働きかけられているように感じた。それに比べると自分は、自分なりの動作、うまくやっているつもりの相手を無視した自分勝手な動作になっていた。

7) 「歌を歌う」ワーク(全員→2人1組)

 残り時間が少ない中、手早くAさんやBさんなどと歌を目で聞きながら歌った。Aさんは意識が安定していたが、Bさんは目で聴くときの意識のゆらぎ、途切れが気になった。二人とも前に比べるとはるかに良くなっている。しかし日野先生の手本には程遠い。今後も挑戦し続けて、相手を聴き、相手に歌う、集中の精度をどんどん上げていくしかないだろう。

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妄想、幻想って特別な状態だと思っていたが、言葉を使うと即幻想だとは今まで考えもしなかった。そして、言葉が作る幻想の世界にしか不安はない。感覚だけの世界だと静かになる。言葉や大脳が作り出す思いの世界には注意がいる。言葉は便利だが、現実そのものを表すことはできない。言葉で表現される世界はあくまで仮想、幻想、妄想である。普通ヒトはすぐに幻想の世界に入り込んでしまう。今回はコロナ騒動中ということもあり、学びがよけいに大きかった。世の中が変でも、今、ここで、感じる世界に入ると静かになる。

手本をまねるにしても、言葉で場所を認識したり、動作を表現してしまうと、自分なりの場所を自分なりの動作ですることになり、手本と似ても似つかぬ動きになる。一念をもって対象に向かい、感じた感覚を繊細に受け止め、動く。そして自分の動きの癖を動画などで把握し、手本とどう違うか見つけ、修正していく。そんなことが大事だと学んだ。

日ごろ感じる体の不調に関しても、例えば目が痛い、肩がこる、だるい、お腹がはる、など言葉でレッテルをはってしまうと、思いの世界に入って苦しむことになる。今、自分の体の「ここ」が「こんな感じ」だ、と感じだけに集中すると、感じがどんどん変化し、やがて気にならなくなってしまう。大脳を極力働かせないように、なるべくアホな状態で、感覚の世界で感じ、動いてくのが大事だ。「思いわずらう」とはよく言ったもので、みんな大なり小なり、思い患っているのだ。

生きる実感は言葉の中にはない。感覚や感情の中にある。昔は、学問をする頭でっかちの人は農民から馬鹿にされていた風潮があったという。まして現代はデジタル情報があふれ、大脳の仮想空間の中で生きている人だらけだ。だからほとんどの人は生きている実感に乏しく、苦しんでいるのかもしれない。人はすぐ言葉で思考してしまうが、思考の瞬間は感じていない、すなわち生きていない。武道では、隙が生じている瞬間であり、死にていだと言えるのではなかろうか。こうしてレポートを書いて振り返っている時も、言葉と思考を用いて幻想の世界にいる状態であり、実際に生身の体で欲求を持って行い、感じることのほうがよほど大事だ。死と生を行き来して、文化、文明を築きあげてきたのが人間かもしれないが、ときに大脳が発達していないタコや魚、鳥など“下等生物”の方が本当に生きていると感じられる理由がわかるような気がする。