2021年7月14日水曜日

意識は洗練させるべきもの 6期6回目 大阪明鏡塾レポート

  6期も特別何が出来たわけでもなく終わった。課題が次から次へ出てくるので、ずっと道半ばだ。今回は、武禅後の明鏡塾だったので、意識の鮮明度にいつもより注意がいった。意識はだいぶ濁っていたが、1日終わると意識がだいぶすっきりした。

 

●冒頭の宿題:「最初に元気なあいさつ、声かけをしてみる」に関して

1Mさん。チーターが一心にえさをねらっているときのようにする。結果、体がうまく動く。手技などをしているとき、体の事は考えないこと。考えるとしたら、例えばスポーツで球を投げるとき、全体のバランスはどうか、を考える。体が自動的にやってくれる事、そっちにまかせてしまうこと。体の部分部分、腕や肩の動かし方、動きをどうするか、なんて考えるのは間違いの元。

2Nさん。いろんな人がいるが、相手に合わせることは考えなくて良い。こっちが元気だったらいい。死にかけのばばあとか、いろいろいるが、原田先生は元気にあいさつする。そうすると相手は元気になる。こっちが死にかけの人に合わしてもしゃあない。

3Oさん。元気にあいさつする。最初に、ほめるところがあれば、ちょっとほめておいて持ち上げる。怒るところがあれば、軽く怒る。そうして明るくして治療に入る。

 

A)    今回の明鏡塾のワークについて

1) 「背中を触れる」ワーク(21組、腹臥位)

 今回もIさんと組み、筋肉を触れる、骨(肋骨など)を触れる、と違いを確かめていった。意識の焦点を調節して、手の感じとる先を、自分が意図した深さ、その場所の筋肉、もしくは骨に当てる、ということを試していくと、意識が静かになって、手を当てながら寝そうになった。終わった後の相手の顔も血行がよくなって、「ちゃんと手が自分に触れられた感じがして気持ちよかったです」という感想が聞けた。相手のいろいろな所に意識の焦点を当てて、手で感じ取るのは面白い。これからも、手で感じとる精度、遠さ、広さ、深さなどの範囲を深めていきたいと思った。

 

2) 「坐って後ろに倒す」ワーク(21組、坐位)

 坐っている相手の片腕を両手で持ち、前腕の骨を手で感じて、骨を動かして後ろにこかす、というワーク。意識を静かにして、手から感じる相手の骨だけを相手の方へ動かすと、相手はバランスを崩してこける。何回かやっているうちに意識が静かになってきて、出来るようになった。手をピタッと当てて、相手の筋肉と骨を圧を微妙に調節しながら感じ取り、手だけの感覚になって、その感じのまま骨を動かすと、手応えがないままに、相手はバランスを崩して倒れた。

普通に、手で腕を握って相手をこかそうとすると、自分の欲求だけがあって、相手とぶつかって相手は抵抗してこけない。数十分後ワークに取り組んで慣れてきた後、「筋肉を感じる」ワークに移り、同じ事ができるのを確かめた。

 

3) 「坐った人の両腕を持ち、腕を回外させつつ、相手の肘を外側から背中へ誘導し、そこから相手の肘を下へ動かすことで背中を下へと窮屈にロックさせ、最後に腕を回外させて腰バンドをつくり、椅子から立たせる」ワーク(21組、椅子坐位と立位)

坐った相手に腰バンドをつくり、相手を椅子から立たせるワーク。今まで何度も挑戦しているが、今回も難しかった。手の力みがどうしても出るのと、手から相手に自分の意識が伝わらないのが、課題として見つかった。日野先生がデモをされると、自分の体がどの方向へ動くべきか、意志が明確な線となって手から伝わってくる。不思議な感覚だが、日野先生の意志、意識の明瞭さがはっきりときわ立って感じとれる。自分たちがやると、まったく相手に意識が伝わっていかない。手は力ませず、自分の体幹は力一杯動かして、根性でなんとかできないか、とワークに取り組んだ。そのうち体幹の余計な力が抜けてきて、明瞭な意識が相手に伝わるようになればいいのだが・・・。

 その次に、手は相手の前腕を握っておいたまま手順を想像でなぞるだけで、相手を椅子から立たせるというワークも行った。日野先生は簡単にデモされるが、当然のように自分たちにはできなかった。そのうち少しは意志が相手に伝わるようになるのかなあ、と半信半疑状態のまま終わった。

 

4) 「寝た人に歌を頭の中で歌ってもらい、相手の意識を吸い取るがごとく感じたら、相手を起こす」ワーク(21組、仰臥位と坐位)

 相手と立位同士で対面して、相手に一歩踏み出してもらい、動こうとする意識を感じた瞬間、相手に向けて手でストップをかける、というワークを準備的に行った。そして、相手に仰向けに寝てもらい、頭の中で歌を歌ってもらう。首の後ろに片手を添えて、歌を歌っている相手の意識を取りに行き、上体を起こす。もし意識が吸いとれたら、相手をすんなりと起こすことが出来る。なんの歌かは分からないが、歌っている意識を本当に取りに行けたら、すんなりと起こせる。Iさんとやったが、お互い意識をつかみに行けず、遠い感じがした。目で聴く、意識を吸いとる、は意識が自分の方へ引っ込みがちな自分たちにとって、難しいワークだった。日野先生から「もっと(積極的に)吸い取りにいけ」とアドバイスがあり、あきらめずに挑戦していると、なんとなくこれか、と思う瞬間が出てきて起こせた。なんでこんな現象が起こるのか不思議だが、面白かった。

 

B)    今回の明鏡塾を終えて

最後の話し合いで、意識という鍵となる言葉について、注意があった。

「意識的にやったら緊張する」と言う人がいるが、「あほか」。意識的もへったくれもない。各人の仕事に沿って触れたらいい。直球で触れたらいい。実際はシンプルだ。無駄な言葉が多いから、自分が使われてしまう。チーターがえさをねらって追いかけるとき、全身が勝手にそれをしている。

武禅で、意識の働きは洗練すれば、自意識といったような自分が作り上げた幻想ではなく、現実的な世界で、体の感覚に即したものとして働かすことが出来、それは自分の体とは違う他人の心身にも働かすことができる、ということを体験させてもらった。生きていたら意識はある、と意識について特別に何も考えていなかったが、意識は一生をかけて洗練させていくべきものだったのだ。

意識、感情、意欲といった生の原動力となる要素を再発見することにより、命のエネルギーが呼び起こされ、ヒトの秘めたポテンシャルはすごい、と感じることが出来る。日野先生の一連のワークは素晴らしい。

日野先生からのお返事: 

「意識は一生をかけて洗練させていくべきものだったのだ。」

結果として、そういうものなのです。

つまり、自然成長的には成長や洗練はありません。

自分自身の成長がそのまま意識の成長になるのです。

とは、言っても「意識」という世界は、意識で考えている限り、というかそれしか出来ないのですが、どれだけ広大なものか、きっと人類には分からないと思います。

それこそが、お釈迦様の掌の上で、という感じですね。

 

結局、武道の探求は、お釈迦様の掌の大きさを知る為のものなのかもしれません。

 

 

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