2019年6月14日金曜日

脱・キカイダー


宇宙や地球、生命の歴史といった壮大な物語が好きだ。
そのような世界のお話しをしてくれる一人に、三木成夫先生がいる。
若い時、三木成夫先生の「胎児の世界」を読んで、かなり影響を受けた。

最近「人間生命の誕生」(築地書館)を再読した。
さすがは良書で新たな気づきがいっぱい得られた。
明鏡塾のおかげで生命に対する見方が進歩したせいかもしれない。
今回、その本の「第Ⅰ章 生命とは何か」から引用して、話を進めてみたい。

学校では、大自然が「生命」を持つ植物・動物・人間の三大グループと、
それを持たない地・水・火・風の四大グループに大きく二分される、と習った。
ところが一方、「お日様が微笑み、そよ風がささやく。大地が眠り、海が怒り狂う。」
などと言う。
そこには生物、無生物といった区別はなく、
地・水・火・風のすべてがわれわれ人間と同じように「生命」を持ち、
喜怒哀楽の生を営んでいる。
こうした世界は上古代のそれにあたる。
「生活」は「生命」のたんなるひとつの表われで、
「生活」は「生命」の終わりを意味するものではなかった。
死んでも命はまだ続いていた。

しかしいつの間にか、ヒトは生活に執着するあまり、
生命と生活は表裏一体の関係となり、
生命がなくなれば生活は終わりを告げ、
生活が終われば、生命が喪失したこと「死」を意味するようになった。
「生とは死に抗する機能の総体である」と考えるようになり、
今日の自然科学的な生物学は
「死に抗するための闘争」の「しかけ・しくみ」を解明すること
に全力をかたむけ、
全ての自然を、たんなる「無生」の機械的な物体として考えようとしている。

現代では、この人類史に起こった「生」の意味の大きな転換のために、
生の問題の再検討を強いられている。
われわれが、なに心なく自然に向かった時、
そこでまず眼に映るものはそれぞれの「すがた・かたち」である。
そのとき、それらはことごとく生きている。
路傍の石ころひとつとっても、軒の雨だれひと滴とっても、
それらはみなそれぞれの表情でもって
われわれに生き生きと語りかけてくる。

これに対し、もしわれわれの眼が、それらの「しかけ・しくみ」にしか届かない時、
それらはただ思惑の対象としての無生の物体となるだけだ。
われわれはまさにこの「すがた・かたち」の中にのみ、
「いのち」というものを見出す。
死してなお、ひとの心に鮮やかに、その「すがた・かたち」が残る時、
その人間の「いのち」というものは、まだ亡びていない。
「看護の本質」「治療の根本」は、本来は「すがた・かたち」、
ここでいう「いのち」を見る眼によってのみ支えられる。

以上、長々と引用させていただいた。

昭和40年代、キカイダーという子供番組があり、夢中になって見た覚えがある。
人造人間キカイダーの心の葛藤が子供心に面白かった。
そして現代である。
ヒトは、コンピューターの端末として振る舞うようになり、
ますます機械化の歯止めがきかなくなっている。
・機械的な検査、診断、治療」を受けて、症状が治らず困っているヒト
・「医者にかかっても、コンピューターばかり見て私の方を見ない」と、ぼやくヒト
・機械のようなすばやい反応、結果を期待し、思い通りにならないと、
キレたりフリーズするだけのヒト
と、ちょっと考えただけで、すぐ例が思い浮かぶ。

では、脱・機械化を目指すには、具体的にどうすればいいのだろうか?
現代社会の中では、これは難問である。
そんな中、日野晃先生は、明鏡塾という、
そのようなことを学べる貴重な場を、与えて下さっている。
「目で聴く、背中をちゃんと触れる、頭で解釈せず感覚をありのまま受け止める」など、
一朝一夕に出来ないことばかりだ。
しかし「いのち」の本質にせまる発見を次々に得られるのが、非常に面白い。

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